「理研23号館」 有山 正孝 リレー・エッセイ1-1

「理研23号館」

国際物理オリンピック2022監事
東京電気通信大学名誉教授
有山正孝

 私が何時、如何なる契機で物理学を志したのか、明確な契機は思い当らない。言えるのは小学生の時代(1936―1947)にそのような気持ちが徐々に固まったようだということである。
その遠因の一つは、私の父が物理学者であったことと、幼い頃から特に可愛がってくれた叔父の一人がまた物理学科の出身であったことにあると推測される。つまり物理学は、その頃から私のごく身近にあったのである。

その頃、父は理研、すなわち理化学研究所の仁科研究室に籍を置いていたので、所の公開日などの機会にしばしば私を研究所に連れて行ってくれた。そこには建設中のサイクロトロンや、酢酸の香りの漂う工場など、好奇心を誘う場所がいろいろあって、私はそれを楽しみにしていた。23号館の仁科研究室には若き日の朝永振一郎先生、小林稔先生、玉木英彦先生が居られて、子どもが入り込んでも嫌な顔をせず、丁度良い息抜きと相手をしてくださった。我が国における量子物理学研究発祥の地とも云うべきその研究室は仁科芳雄先生が移植を図られたコペンハーゲン精神に充たされた空間であったのであろう、その雰囲気は子供心にも魅力的に感じられたのであった。

仁科芳雄博士は7年間に亘る在外研究期間中、1923年から1928年までの5年間をコペンハーゲンのニールス ボーア研究所で過ごされた。その当時この研究所では世界中から集まった研究者が分け隔てなく自由に率直な議論を闘わせつつ研究を進めるという風土があった。それは所長ニールス ボーア博士の流儀であったが、研究者たちのこの姿勢というか精神が、コペンハーゲン精神として知られるようになったのである。
さて、もう一つの遠因と思われるのは我が家の本棚にあった寺田寅彦先生の全集である。十分に理解はできなかったはずであるが、子どもなりに分かる処を拾い読みして、寺田先生の鋭い観察と分かり易い解釈とその文章に魅かれたのであった。

そういう日々の中で、身の回りの様々な現象とその因果関係に興味が深まり、自分も物理学を学んでみたいという気持ちが徐々に膨らんでいったのだと思われる。
その夢は一旦破れそうになる。私の中学生時代は日本が第2次大戦を戦った期間とほぼ重なる。その頃、中学校では物理と化学は一括りにされて“物象”と呼ばれ、粗悪な紙の薄い教科書を宛がわれたが、それを用いて授業を受けた記憶は殆どない。戦況が悪化するにつれて大学生から中学生に至るまで、学生・生徒は学校の授業に替えて軍需工場や軍の施設に労働力として駆り出され、連日、朝から晩まで働かされた。その仕事の多くは単純な筋肉労働で、日々体力を鍛えるのみであった。また志願兵制度が拡大されて中学生の応募が奨励され、文系の大学生の徴兵猶予は取消され、若者にとって未来の夢は限りなく零に近くなった。其の上、兵士にならなくとも戦場は容赦なく我々の頭上に押しかけてきた。繰り返される空襲を生き延びるのは運の問題であった。戦場のみならず国内でも、多くの有為の若者が命を失った。私はさいわい命を失う前に戦争が終わり、以来70年余、物理学の傍らに生きることができた。

今日、国際物理オリンピックにチャレンジできる諸君は幸せである。平和であればこそ、こういうこともできる。そして若い内から広く諸国の若者と交流し、相互理解を深め切磋琢磨してこそ、次の時代を支える若い研究者が育ち、世界の平和もまた維持されるであろう。
若い諸君が私のような体験をすることなく、好きな物理に没頭できる世の中が続くことを老骨は願うのみである。

 

【略歴】

出身地 東京府豊多摩郡渋谷町(現 東京都渋谷区) 1929年生
出身高校 愛知県第一中学校(現 愛知県立旭丘高等学校)1946年卒業
第一高等学校 1949年卒業
大学 東京大学理学部物理学科 1953年卒業
主な職歴等 東京大学助手(工学部)
東京大学助手(理学部)
電気通信大学講師・助教授・教授
電気通信大学長
日本物理教育学会会長(2007~2009)
特定非営利活動法人物理オリンピック日本委員会理事長(2011~2012)

 

 

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